2009年4月29日〜5月1日 国見町 旧千燈寺 西の不動 nisinofudoui-1a
文字サイズは中でご覧ください。

西の不動とは、国東町千灯地区、伊美川(いみがわ)の西に位置する鷲巣岳(わしのすだけ)と黒木山に挟まれた凹凸険しい岩場を称している。岩場には石屋あるいは岩屋と呼ばれる場所、並びに険しい尾根道が天台密教修験者の行場となっていた。

西の不動には、尻付岩屋をはじめ、大不動石屋・小不動石屋・大藤石屋・天疫神石屋・妙見石屋の六窟が旧千灯寺の案内板に紹介されている。(国東半島歴史と民族/梅原治夫著には、大不動・小不動・太郎天・尻付・行者窟の五窟と記されている。また、国東古寺巡礼/渡辺克己著では、大不動の岩屋・小
不動の岩屋・馬頭観音の岩屋・尻付の岩屋・太郎天の岩屋と記されている。)

それぞれの石屋には、石像や木彫の仏像を祀って、体力の限界に挑んで難行苦行に立ち向かった修行僧を守護していた。今は、それぞれの石像や木彫仏像は散在し、一部の所在が分かるのみとなっている。

太郎天石屋の太郎天像と小不動石屋の不動明王石像は千灯寺本堂に安置されている。また、大不動石屋にあった不動明王は、西の不動のさらに西の谷、西方寺地区の中ノ谷不動堂に安置されている。

また、鷲巣岳(わしのすだけ)の山頂には、社(やしろ)があって役の行者(えんのぎょうじゃ)を祀っている。


役行者とは

名は役君小角(えのきみおづぬ)、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)などと呼ばれる。光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られる。白鳳時代の山岳修行者で修験道の開祖として山伏たちに崇められている人物である。
実在の人物であるが、記録は極めて少なく、その生涯は伝説の中で伝えられている。伝説には色々な異
説があり、真実は不明である。
続日本紀によると、634年(舒明天皇(じょめいてんのう)6年)8月10日、大和国葛木上郡茅原(ちはら)の里、現在の奈良県御所市茅原の本山修験宗大本山・茅原山金剛寿院吉祥草寺で誕生した。
父は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかものあそん)で加茂役君(かものえだちのきみ)加茂間賀介麻(まかげまろ)という。またの名を大角(おおづぬ)という。母は渡都岐比売(とときひめ)、またの名を白専女(しらとうめ)刀自女(とらめ)といわれている。

不動明王信仰

不動明王は、悪心を調伏するために恐ろしい姿をしている。大日如来の命を受け、仏法を障害するすべてを打ち砕き、すべてを正道に導き救済するという役目を持っていると言われる。

不動明王は、サンスクリット語でアチャラナータ。シヴァ神の異名で、五大明王の筆頭である。激しく燃え盛る火炎を背にし、眼光鋭く、右手には降魔(ごうま)の剣を持ち、左手には綱を握っている。矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子をはじめとして、八大童子などの使者を従えている。背後の猛火は、迦楼羅鳥の吐き出す火炎であり、迦楼羅炎(かるらえん)と呼ばれる。

全ての災魔を屈服させると言われ、難行苦行に立ち向かう修行者を守護すると伝えられる。


右画像は、国見町西方寺(地名)清浄光寺不動明王三尊

西の不動探検

それでは、天台修験者がどんなところで修行をしていたのか、自分の足で訪ねてみましょう。

先ずは、尻付岩屋。ここは、千灯寺から県道31号線を南へ800mほどの道沿いにある。

以下、説明書き転記

町指定 尻付岩屋(しりつきいわや)
この岩屋は、昔行者の修験者の行場である。六観音の木像を安置した西不動の一つで平地にあるが他に大不動・小不動・太郎天岩屋がある。皆険阻
な岩場で、妙見岩屋を加えて五辻の岩屋と言う。
養老四年異国降伏の祈祷に仁聞菩薩が五人の同行と不動五壇の秘法を修めた。

    国見町教育委員会昭和53年3月31日

わかりやすい説明だが五辻の岩屋は東不動の事、西不動の五窟とした方が?

岩屋は、大きくえぐれた場所に潜り込むように作られている。横から覗き込むと屋根は奥行きの三割程度しかない。
中に入ると、格子の向こうに六体の観音像らしきものが並んでいる。その姿は朽ち激しく観音の姿は想像遠い。

六観音:一例として、聖(しょう)観音・十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・千手観音。







次のページへ・・・