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国東半島峯道ロングトレイル T-2 を歩く |
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2014/12/26 |
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西叡山高山寺 |
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太宰官内誌によれば、「たかやまでら」だが、現在は「こうざんじ」と呼ばれている。(現船津大乗住職)
往時は、京都の比叡山、東の東叡山(関東総本山)、西の西叡山を三大叡山と呼ばれていたようだ。
歴史に関しては記録が薄く、太宰官内誌では、【六郷山定額院主目録】の高山の養老寺、また、【院主目録】の西叡山良叡山圓徳寺の記録が紹介されている。
高山寺は、本山本寺(学問の場)のひとつとして、六郷満山の寺院を統括していた。
【六郷山定額院主目録】の高山の養老寺の記載では、四十五坊の規模とされる。
西叡山八合目、標高480メートルの現在の場所に、高山寺が再興されたのは、1984年(昭和59年)。
元来の場所での再興ではない。
建屋は、寄せ棟造りの屋根で、富貴寺の宝形造りを模していると云われる。
境内、駐車場からの眺望は、国東半島の山並みを一望出来、左手には周防灘が広がる。 |
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焼失に関する物語
西叡山高山寺は、江戸時代初期に尼さんの付け火で焼失してしまったとの云い伝えがあります。
西叡山高山寺の七堂伽藍は立派で、一枚の扉を開けると、他の扉も一同に開く不思議な扉を持つお寺であるとの話を京都比叡山が聞きつけ、比叡山が寂れてきたのは、豊後の国六郷満山の「不思議な扉」の所為であろう。この秘密を解き明かさなければ日本一の比叡山は負けてしまう。・・と、京より尼さんを使わしました。
尼さんは、修行僧に紛れて高山寺を建てた大工から、からくりを聞こうと奔走しましたが、その大工と恋に落ちてしまいました。比叡山からは、「秘密の扉」について再三の催促を受けました。尼さんは、恋をした大工から離れたくない強い思いから、高山寺を燃やしてしまえば秘密の扉は燃えてわからなくなったと言い訳が出来るだろう。また、高山寺が燃えてしまえば比叡山の反映も復活し、私の役目も無くなるだろうとの思いで、高山寺に火をつけました。
火の勢いは強く、あちこちへも飛び火し、尼さんの着物にも火がつき燃え出してしまいました。その火を消そうと、中恩寺前のイゼに飛び込みましたが、イゼは深く、尼さんは溺れ死んでしまいました。
村人は、今でもその場所を「ピクニがイゼ」と呼んでいるそうです。
ピクニ:比丘尼・・尼さんの事
イゼ・:井堰・・水をせき止めたり分水する為の人工的構造物 |
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高山寺駐車場 |
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スタート |
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いつもの仲間に誘われて、今日は、西叡山高山寺から並石ダムまでの、約16kmを歩きます。
私も一緒に歩く仲間も、「国東半島峯道ロングトレイル T-2」区間を通しで歩くのは、今日がはじめてです。
8時半、並石駐車場に集合し、1台に乗り合わせて、T-2コース出発地点の西叡山高山寺の駐車場へ・・・
今日の参加者は、佐藤重三、堀田富夫、後藤政司、高橋誠一の4名です。もう2名参加予定でしたが、急用で欠席となりました。
外気温は1℃・・結構寒い。 9時西叡山高山寺駐車場を出発しました。 |
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コンクリート舗装道を300m程下ると、コースは、進行方向右手の山道に入ります。小さな標識が木の枝に縛り付けられています。見落とさないようにね。 黄色い「水源かん養保安林」の看板があります。 |
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ここから山道を250m程進むと、左へ下る分岐となります。ここも左手の木に小さな表示が縛り付けられていますので、見落とさないように。
分岐が確認できたら、トラロープと標識とカラーテープ(マーク)を頼りにひたすら下っていきます。 |
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地図の等高線が示すように、谷筋沿いに下っていきます。 この区間は、立木しか無く、地図が頼りになりません。木々に付けられたマークや表示板が唯一の頼りとなります。
しっかり標識板とテープを見つけながら進みましょう。
コースは、足下がガレ場でやや歩きにくいが、自然林の中を歩く気持ちいコースです。 |
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次の分岐にたどり着きました。 目の前には、イノシシや鹿除けの金網がありました。 金網のゲートを開けて、県道35号線から小崎に通じるバイパス道に出ます。・・・金網のゲートは元通りにしっかり閉めておきましょう。 |
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金網をあけてバイパス道へ出ます。 コースマップにはこの道路がありません。(地図には点線が見える。)・・部分的な拡大地図があれば良いかな? |
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さて、どっちだろう? 地図をしっかり見て・・・ |
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高山寺から約1時間 |
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下の地図は、国土地理院の地図。・・新しい道路が書かれています(赤い線は、私が歩いたGPSの移動軌跡) |
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次は、天満宮を経由して岩脇寺へ向かいます。
左手の水路の向こう側に表示板を見つけましたが、地図では水路も水路向こうの里道も識別出来ません。水路の向こうの表示板をしっかり見つけてください。 |
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下の画像の黄色い線がルートです。コンクリートの橋(蓋?)を渡って、水路沿いに進みます。
バイパス道からこの農道に入ると右手に今下ってきた西叡山が聳え、冬枯れした田んぼの風景が広がっています。なかなかの景色を楽しむことが出来ます。 |
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水路沿いの小道の土手は綺麗に草が刈られています。よく見るとノビルが群生しています。これって囓るとピリッとした辛みがあって、なかなかの味わいですよ。サラダにまぜても良いと聞きました。 |
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コンクリートの橋を渡って、100m程歩き、道沿いに左の方へ上ると、半分壊れた天満宮の鳥居や石灯籠や石段が見えます。その石段が天満宮の参道です。 地図には、天満宮が記載されていません。要注意ポイントです。 |
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壊れた鳥居の下には落ちた額があり、天満宮の文字が読めました。 収穫に感謝してのお祭りが行われたようで、新しい御幣が参道に立てられていました。 長い石段も綺麗に掃かれていました。
急な石段の上に祀られる天満宮へのぼって行きます。 |
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天満宮は、菅原道真を祀る神社です。 太宰府天満宮からの勧請の神様で、学問の神様として厚い信仰を集めています。
本尊を岩屋の中に祀る形態からして、もしかしたら、寺の奥の院だったのかも知れません。 |
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天満宮の右手の道沿いを少し進むと、正面に玉垣に囲まれた石殿が見えます。 右下手には綺麗な茶畑が見えます。 石殿をのぞき込むと、稲荷大明神の文字が読めました。
玉垣をつなぐ鉄のパイプは、すべて取られていました。戦時中の鉄材として使われたのでしょうか? |
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稲荷社・・・元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神と云われています。
京都市伏見区にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本社となっています。
朱い鳥居と、神使の白狐がシンボルとなっている神社として、知られています。
「稲荷」と表記するが、「稲生」や「稲成」とする神社もあります。
伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社が祀られています。 稲荷神は、食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神と云われています。 また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られています。
神道の稲荷神社は、『古事記』、『日本書紀』の神話で登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)等、穀物・食物の神を祭神です。
総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀っています。
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稲荷社を正面に見ながら左折して、竹藪の道を100m程下り、突き当たりを右に進みます。 程なくのT字路を右折し、即植木の間の道を左に下ります。 民家の庭先を通り抜けて、民家の間の瀬戸道を進むと、岩脇寺の境内に出ます。 |
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岩脇寺 |
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高山寺から約1時間30分 |
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【境内説明書き】
六郷満山 本山本寺 日野山岩脇寺(天台宗)
霊場めぐり第三番札所
開基 仁聞菩薩 養老三年(719)
本尊 阿弥陀如来
寺伝云日野山岩脇寺は仁聞菩薩養老三年(719)開基 また、延暦寺の直末であったとも、六郷山定額院主目録に岩脇寺正等院徒六房あり天正中兵火に罹り烏有に帰す。
寛永元年(1624)浄眼和尚衆庶の進施に依り再建、天明年中(1781~1788)の寺院名簿に岩脇寺は島原領内にあり
寛政五年(1793)三月寂照和尚の時城主松平公に請うて営繕改修し本堂庫裏を今に残す。
境内の神仏
本堂 阿弥陀如来、不動明王
弁財天及脇侍十体
三十三観音、帝釈天
奥院 六所権現、八十八ヶ所石仏
磨崖仏 |
豊後高田市観光協会 |
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日野山岩脇寺
養老三年(719)仁聞菩薩が開いたと伝えられる天台宗の古寺で本尊は阿弥陀如来です。
昔、鬼会が盛大に行われた講堂跡をまわり本堂に参拝し六所権現と奥の院岩屋を巡って十分余り後には今の位置に帰着します。
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日野山岩脇寺 天台宗山門派 六郷山 本山末寺
【寺宝】
・本尊 阿弥陀如来 木造坐像
明治十年に比叡山の飽憧院にまつられていた仏で、恵心僧都の作といわれる。金彩
※恵心僧都(942~1017)浄土往生、念仏をすすめた最初の僧侶
それまでは不動明王が本尊
・不動明王三尊 木造立像(厨子の中)
・不動明王三尊 木造立像
・阿弥陀如来 木造坐像
・観 音? 木造坐像 愛敬寺(霊場記五二番)本尊という。
・弁財天 木造坐像
・十六童子 木造立像
・天台大師 木造坐像彩色
・伝教大師 木造坐像彩色
・焼 仏 木造二体 高山寺の仏とされる。
・三十三観音 石造 鐘楼に安置
・半 鐘 寛延三年(1750)
・高山寺遺物 潅頂弊 大一本 小一本
鏡 施主 田原大野 文政十一年子七月 (1828)
【時代検証】
○ ? 史料はないが、平安末か鎌倉初期の開山とおもわれる。
○弘安七年 田染村史によれば、将軍よりの教書に基づき、高山寺などと異国降伏の祈祷をしたとある。(1284)
○建武四年 「六郷山本中末寺次第并四至等注文案」に日野岩屋と記されている。(1337)
○応永三平三年建立の宝饉印塔 相輪部後家あわせ
応永三十三年 ・右伏請 ・三宝證明 ・諸天洞鑿 ・九月十八日 建立
○室町時代成立とされる「六郷山定額院主目録」に岩脇寺正等院徒六坊之あり。
※室町時代 1392年~100年程度
○天正十四年 兵火にあう。 (1586)
○寛永元年 浄眼和尚、再興を志し村々を回って喜捨をうけて雨露をしのぐ草庵を建つ(1624)
○元禄二年 島原藩に提出の田染組絵図の明細書きに岩脇寺の名あり(無住の場合は寺名なし)
○島原藩豊州御領覚書 寛保・延享・寛永年間(1741~1750)に寺名あり。
※無住の場合は寺名なし。
○安永六年 天台宗豊後六郷山延暦寺名簿に寺名あり。(1778)
○安永八年 峯入りの智恩寺柱銘のなかに参加者として寺名あり。(1779)
○天明年中寺院名簿には、田染郷横嶺村、日野山岩脇寺ハ島原領、山門末、本尊不動、十二天、今宮、天神、奥ノ院ノ岩屋六所権現、高山六所権現岩脇寺預り、高山堂正観音同断、本堂阿弥陀、観音、十王、岩脇寺末寺喜福寺同村云々とある。(1781~1789)
○寛政五年 寂照和尚、島原の松平氏の援助で本堂を再建した。(1793)
○天保七年 元禄の絵図に天保七年までに変化のあった時は掛紙をつけて提出するように指示されたが、寺名は記載されている。(1836)
○天保十一年護摩堂再建 (1840)
○天保十六年六所権現神殿再建 (1845)
○嘉永六年峯入り修札 (1853)
嘉永六癸丑天 大先達行入寺豪清 文殊仙寺 天念寺
千灯寺 胎蔵寺
大衆
六郷満山仁聞菩薩古跡入峯行者拾一人初入敬白
敬白
興道寺 清浄光寺
二月吉良辰 後越家両子寺豪千 宝命寺 大聖寺
○安政六年石造鳥居建立 (1859)
右表 神之降当庶民有厳
裏 巳未冬十二月 別当 教成院豪真法印
石工 大力村 大野寿右衛門
左表 命干下国封迷願福
裏 安政六年 村正 渡辺源兵衛源知
願主 氏子中
額 六所大権現
○文久元年石燈籍寄進 (1861)
奉寄進
大力村 大野寿ヱ門基親
文久元酉六月
○元治二年石燈龍寄進 (1865)
元治二丑十二月 岩脇 平吉
○明治五年前後の本末一派寺院名簿に寺名あり、無住は記載なし (1872)
○中世以降琵琶法師と呼ばれた国東半島における盲僧の檀名寺であった
○修正鬼会は明治三七年ころから中断
○岩脇寺の住職は必ず「となしとのくち」で修行せねばならないとされた。
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岩脇寺の左手から、岩脇寺裏手の奥の院(六種宮)へと上る。この道には、六所宮の鳥居や神仏の祠があり、神仏習合を強く感じます。 |
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磨崖の仏があると書かれていますが、風化が著しく、その姿を見ることが出来ません。 その先には岩が大きくオーバーハングしたところがあり、多くの仏様が祀られていいます。また、観音堂もあって、八十八ヶ所めぐりの観音像がここに集めて祀られています。 |
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崖の上には、かつて六所宮の社がありましたが、今は朽ち果てた残骸が崖っぷちに積まれているだけになりました。 |
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ここは、十年に一度行われる、「峯入り」のコースでもあります。天台の僧侶達が、この道に立、「散華」と呼ばれる所作を行います。 ここを下って、県道35号線に出ます。 |
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岩脇寺をあとに、県道35号線に出て、七田(しった)へ向かいます。 |
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県道35号線の交通量が多いので、少し遠回りだが、田んぼ道を歩きます。 舗装道路と突き当たったら右折して、桂川を渡ります。 |
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桂川を渡り終えたら、すぐに川沿いの道に入ります。 そのまま舗装道路を歩いても七田の標柱に行き着きます。 |
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なにか見つけました。 穂には「石書大乗妙典塔」とありました。 大乗妙典とは、衆生を迷いの世界から悟りの世界に導く経典で、一般的には法華経、をさすといわれています。
石塔には「奉読誦大乗妙典一千部供養」「妙法千部供養」などと刻まれることもあります。
もう一つありますが、なんだか分かりません? |
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七田 |
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高山寺から約1時間50分 |
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七田の標柱に並んで記念撮影。・・山の方に続くコンクリート道路を上って行きます。
次は、七田観音を目指します。 |
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ここからのぼりです。上の家のワンちゃんに挨拶して、家の裏手の道を真上にのぼっていきます。 |
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この小さな標識が右方向の道の角にあります。右に曲がらず、真っ直ぐ上にのぼっていきます。
「中林横穴群」・・さて、これも調査テーマですね。 |
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「七田」の標柱から約300mで道を右に折れます。 ここからほぼ水平に80m程で「七田観音」へ到着します。 |
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七田観音 |
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高山寺から約2時間5分 |
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「七田観音」の標柱に到着しました。
コースマップは、七田観音を経由していませんので、注意が必要です。 |
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目の前に突然現れた観音様と素晴らしい石組みの建造物。 さて、観音様は観音信仰の場と理解できるが、その右側にある石壁の部屋は何でしょう。 高度な石工の技術を要したであろう素晴らしく緻密な加工です。 中には、十王さんと観音さま等が並んでいます。 十王さんはあとから持ち込まれたように感じます。
想像するに、葬送の場では無いでしょうか。 今後の調査の課題としましょう。
観音さまの前の線香立てには天明六年(1786・・228年前)の文字が読めます。 |
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岩屋の観音様・・彩色が美しい・・・不届きな輩に持ち去られないことを願います。 |
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居心地が良い場所の上に、いつまで見ていても飽きない仏様達の顔についつい時間を忘れてしまいます。
深い信仰が作り出した素晴らしい場所です。 |
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七田観音の地域情報
七田観音は田染池部の集落の人々が信仰してきた知られざる岩屋である。
向かって左側には、約30体もの彩色の残る観音様が安置される。 如意輪観音・千手観音・観音菩薩が並んでおり、中には最近足されたものも見受けられる。 造形は素朴であり、地元の集落の方が守り継いで来たことがよく分かる。
墓碑の役割を果たしたとも考えられるが、管見の限り銘はなかった。
かつてはお祭もあったらしいが、既に廃れている。
右手には、石でできた覆屋を備える。中を見ると、中央には如来系仏像(一体だけ経年感があり、少なくとも江戸中後期の作と思われる)や不動明王が安置され、十王・六地蔵など様々な仏像がその周囲に置かれている。
構成からして、信仰の中心はこちらにあると思われ、六郷満山の影響を強く受けていることを感じさせる。
岩屋の前には手水台と仁王があり、銘が施されている。 それぞれ天明・寛政とあり、江戸時代の中後期くらいから、この地が村の信仰の場として成立したという事がわかる。
また、手水台に銘がある安岡友左衛門は、一代前まで集落で暮らしていた地元の方の先祖に当たり、安岡家は七田観音の整備に代々尽力されたということである。
仁王は江戸後期か? 地方感あふれる、やわらかい造形である。
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七田観音の真上に「稲荷社」の祠があります。「七田観音」の標柱から少し戻った所から上によじ登ります。 |
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稲荷社・・・元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神と云われています。
京都市伏見区にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本社となっています。
朱い鳥居と、神使の白狐がシンボルとなっている神社として、知られています。
「稲荷」と表記するが、「稲生」や「稲成」とする神社もあります。
伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社が祀られています。 稲荷神は、食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神と云われています。 また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られています。
神道の稲荷神社は、『古事記』、『日本書紀』の神話で登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)等、穀物・食物の神を祭神です。
総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀っています。
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稲荷社裏の尾根道を左(東)へほぼ道なりに約4百メートル強進みます。この道は、比較的道跡もはっきりしており、分岐もありません。ルートを表示する色テープもあるので、それをしっかり探しながら歩きましょう。 |
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クヌギ林の分岐点 |
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高山寺から約2時間30分 |
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尾根道は、行き止まりとなり、道は左右に分かれます。そのT字路を左に折れます。
クヌギ林のクヌギは、一昨年切られてシイタケのほだ木となりました。今は、切られたクヌギの株から新芽が伸び始めています。 |
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分岐点を左折して、クヌギ林の作業道を100m程進むと左右に貫通する作業道にぶつかります。この交差点の斜め右下に道が下っています。黄色の矢印の場所に表示板がありました。 |
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分岐(表示板)から約5百メートル強で、標柱「平原・金政の里」へ到着しました。 お昼の予定にしている富貴寺まではもう少しです。 |
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平原・金政の里から其の田飛び石までは、やや地図では分かりにくいですね。 道と川の関係が地図と異なっています。以下に、新しい国土地理院の地図の上にポイントを書き込んでみました。 |
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標柱から道なりに歩き、十字路を直進します。さらに進むと、大きな柿の木のある倉庫があります。その倉庫の左脇の道を進みます。倉庫の裏手は墓地で、古い墓石や五輪塔が並んでいます。 |
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竹藪の中の道を進んでいくとイノシシのカゴ罠がありました。 |
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さて、ここを左に折れて川に出るのですが、標識が見つかりません。薄っすらと左に下る道の下目印のタープがありました。間違いやすいので要注意です。 |
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すぐに、橋が見え、獣除けの金網があります。 金網を開けて、橋を渡ります。金網は、しっかり閉めておきましょう。 橋を渡ったら、右に川沿いの道を進みます。 |
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ここから富貴寺の大きな銀杏の木が見えます。 もう少しですね。
右手の川向こうに、「其田の飛び石」標柱とその飛び石が見えて来ました。 |
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大きな石灯籠がありました。其の台座脇に石の道標が立っていました。 右高田 左立石・大分と刻まれていました。 |
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川を渡って、其田の飛び石に向かいます。 川にはクレソンがありました。 橋が無いので、濡れないよう注意して渡りましょう。 |
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これが其田の飛び石です。 10年に一度行われる天台の行事「峯入り」時に、僧侶の体力と度胸を試す為に、この上から飛び降ります。 結構な高さです。 |
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其ノ田の板碑や五輪塔があります。 板碑は県指定の有形文化財です。 |
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富貴寺 |
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高山寺から約3時間 |
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9時に高山寺の駐車場を出発して、12時に富貴寺下の駐車場へ到着しました。
3時間の道のりでした。・・少しスローペースだったので、健脚なら2時間30分ですね。 |
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富貴寺駐車場で大勢の小学生に遭遇しました。国東半島のお寺を巡っているそうです。
皆元気いっぱいでした。 |
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今日は、ここでお昼をいただく事にします。
このコースは、富貴寺にお昼頃到着する時間設定で高山寺を出発すれば、弁当無しでOKです。
ここには、ソバのいただける「旅庵蕗薹」や「富貴茶屋」、「ふきの里」があります。土日だったら、橋の向こうでおいしいコーヒーやカレーもいただけます。 |
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堀田さんは、午前中のみの参加です。 お昼を一緒にいただき、仕事のために離脱しました。 |
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昼食をゆっくりいただいた。おおよそ40分ほど居心地の良い個の場所でお茶をいただきながらおしゃべりを楽しんだ。
そうそう、同行の佐藤さんが、団子汁にカボスを絞るとさらにうまいと、店主に無理なお願いをして、カボスを頂き、団子汁に絞ってみた。うん、なるほど・・いいね! さらに、佐藤さんは、ご飯に絞ると良いと言うのでやってみた。これは、私的には?悪くはないが、良くもない。・・ははは・・・
さて、そろそろ午後コースを歩きだそう。 |
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太宰官内誌
○富貴寺
【同書】に 本山分末寺蓮花山富貴寺云云
【天明年中六郷山寺院名簿】に 國崎郷蕗村富貴寺 島原領 山門末 六所権現 本堂 寄付高二石五斗、山林一丁四方なり
【國人云】 富貴寺は田染郷蕗村にあり 寺は南向にして入五間、平三間半 本尊は不動尊なり 傍佛はコンガラセイタカなり 前後に山あり 聊下て右高處に講堂あり五間四面 本尊は阿彌陀佛 傍佛は観音勢至ノ二佛なり 養老二年に榧ノ木一本にて造れりと云 是より一丁登て右ノ方に六所権現ノ社あり 一間四方なり 杉林の中にあり
【院主目録】に 萬治山富貴寺院主高山境地院内證文明白也とある寺なるかなほよく考ふべし |
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豊後高田市観光協会ホームページより転記
富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。
中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されている、まさに『仏の里くにさき』を代表する文化財です。
富貴寺大堂とその中に収められている本尊の阿弥陀如来像は970丈にも及ぶ一本の榧の巨木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩の手によって造られた、と伝えられています。
大堂内は極楽浄土の世界を描いた壁画が施されており、風化が激しいが、極彩色で描かれていたという調査結果から県立歴史博物館に忠実に再現されています。
他にも大堂の周囲には僧侶が修行のときに使用したとされる、梵字が刻みつけられた仁聞石や鎌倉時代の笠塔婆、室町時代の国東塔等があり、かつての富貴寺の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 |
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富貴寺を出発 |
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午後のスタート |
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富貴寺を出発して、すぐ左手の駐車場から左方向の里道を歩きます。もちろん、舗装の県道を歩いても良いのですが、多少なりとも風情のある道をと思い、このコースとしました。 |
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富貴茶として知られる、茶園の下です。 富貴寺から約1kmの距離です。 |
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富貴寺から約1.5kmの地点です。地図では熊野神社と表記されていますが、鳥居の額には「山王宮」と刻まれています。 |
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川内入り口 富貴寺から約2kmの距離です。 |
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富貴寺から約40分 |
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川内入り口から、風情ある山道をセンホウシセン入り口まで、約1.5kmを歩きます。ほぼ道なりですが、中間手当たりに溜池があります。 |
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「川内入り口」から「サンホウシセン入り口」までの中間地点にある溜池です。
この土手を渡って道なりにななめ左手方向に進みんで行きます。
この溜池の池尻の湖水内に、石の祠に納められた仏様があります。 |
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溜池とサンホシセン入り口の中間あたりからの眺望です。 運良く、立木が切られていたので、遙か遠くまで望めました。
先ほど通ってきた富貴茶園の茶畑が見えます。その向こうには豊後高田市街地と周防灘も見えました。 |
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サンホウシセン入り口 |
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富貴寺から約1時間20分 |
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「サンホウシセン入り口」から「山神社方面」まで1.3km |
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庵の迫地区へおりてきました。 正面に屋山が聳えています。 |
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庵の迫 山神社方面 標柱 |
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富貴寺から約1時間50分 |
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ここを右ななめに上って行きます。
この標柱は、地図にはありません。 |
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鳥居の直ぐ下から右手に道がある。その道を下って、舗装道路に出ます。
わからない場合は、石段の参道をそのまま下れば舗装道路に出ます。 |
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ここからおりてくるが、猪除けのトタンが遮っています。 |
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夏吉地区の分岐点です。標識が無いので、ちょっと分かりにくいですね。
昨夜火事があった様です。 ここを右に曲がって程なくの所に「並石方面」の標柱があります。 |
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並石ダム方面 の標柱 |
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富貴寺から約2時間10分 |
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ここから上って行きます。 途中分岐が二ヶ所ありますが、真上方向に進んで行きます。 |
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表示板やテープをしっかり確認しながら進みましょう。 |
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目の前に並石ダムの堤とその向こうの岩峰が見えました。 |
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県道29号線直前から右折して、トンネル右手の道をのぼっていきます。 |
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海神社由緒(わたつみじんじゃ)
兵庫県の海神社より勧請
※以下、宗教法人海神社の説明より転載
海神社は、今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。
この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、さらに当地が海上陸上を問わず、古代交通の要地であったことから、交通安全の神としても仰がれております。
又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)は彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)に嫁がれて、皇室の親である鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)をお産みになりました。そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水をつかさどり、厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神でもあります。 |
宗教法人海神社 |
※三韓(さんかん)とは、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域の事。
朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。・・・WEB情報 |
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海神社裏手から、トンネルの上を通って、並石ダムへ下ります。 |
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並石ダム(こっとん村)へ到着 |
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富貴寺から約3時間 |
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名 称 |
並石ダム なめしダム |
左岸所在 |
大分県豊後高田市大字加礼川 |
位 置 |
北緯33度33分56秒、東経131度34分01秒 |
河 川 |
桂川水系都甲川 |
目的/型式 |
A/ロックフル(灌漑) |
堤高/堤頂長/堤体積 |
38.5m/214.5m/302千㎥ |
流域面積/湛水面積 |
6.5k㎡(全て直接流域)/16ha |
総貯水容量/有効貯水容量 |
1578千㎥/1429千㎥ |
ダム事業者 |
大分県 |
本体施工者 |
日本国土開発 |
着工/竣工 |
1969/1985 |
日本ダム協会データ
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延面距離約16km(距離15.5km)、所要時間約6時間でした。 (昼食40分と知人宅休憩20分を除く)
国東半島峯道ロングトレイル地図を片手に歩いてみました。還暦過ぎのおじさん達で楽しく歩く事が出来ました。
なかなか素晴らしいコースです。多くの皆さんに歩いていただきたいと思います。 |
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